【駒井家ショート・ストーリー】

■駒井家住宅の歴史 ■住宅寄贈の経緯 ■住宅について

■駒井家住宅の歴史

・1914年(大正3年)2月 京都大学で遺伝学を教える福田卓氏が、駒井巷・増さん夫妻の次女準さんと結婚、駒井家の婿養子となる。
・1920年(大正9年)1月 準さん死去。
・1921年(大正10年)2月 駒井準さんの父巷さん死去。その結果、駒井卓氏が家督を相続する。
・1922年(大正11年)3月 駒井卓氏が静江夫人と再婚。静江夫人は、愛媛の牧師の娘として生まれ、神戸女学院で英文学を学んだ。
ピアノを弾き、コーンスープが得意料理だった。
・1923年(大正12年)から
 2年間
駒井卓氏、米国のコロンビア大学に留学、欧州へも廻る。静江夫人を同伴する。
・1925年(大正14年) 帰国後、京都大学教授となる。
・1927年(昭和2年) 北白川伊織町64に米国人建築家ウィリアム・メレル・ボーリーズ設計の住宅を建設。ヴォーリズ夫人と静江夫人は同じ
神戸女学院の卒業生でもあるが、矯風会活動で知り合ったのではと推察される。
・1941年(昭和16年)1月 駒井夫妻は子どもがなかったため、静江夫人の妹夫婦、平塚喜雄さん・冨美惠さんを夫婦養子に。
・1945年(昭和20年) 終戦直後は、米軍の将校住宅として接収される。駒井夫婦は離れに起居。
・1972年(昭和47年) 駒井卓博士死去。
・1973年(昭和48年) 静江夫人死去。
・1974年(昭和49年)6月 12月まで、駒井博士の弟子、時岡隆氏(夫人が喜雄のすぐ下の妹)の息子夫婦の時岡隆志夫妻が仮寓。
・1975年(昭和50年) 養嗣子の駒井喜雄さんの勤務する東京テック(現テック)の研修所・保養所に。
その間、大阪芸大の山形政昭先生がヴォーリズの設計であることを調査。
・1997年(平成9年)9月 東京電気が研修所・保養所を閉鎖したのち、管理人だった本田夫妻が借り受け、駒井邸として落語などのイベント会場や
きまぐれカフェとして使用。
・1998年(平成10年) 京都市指定有形文化財となる(昭和建築の洋館とhして初めて)。
・2002年(平成14年)3月 管理人夫妻が退去され、住宅の身の振り方が親族で検討される。
・2002年(平成14年)夏 財団法人日本ナショナルトラストへの寄贈手続き完了。
■駒井義雄氏のご子息、駒井俊雄氏に寄贈の経緯をうかがいました

 家はその親族により代々引き継がれ、居住居住保存され続ければ理想的であるが、京都の家に関して、現状では近い将来に無理が生ずることが予想された。そのような状況で、この家を相続し、守り続けた駒井義雄の存命中に、家の将来像を検討し、計画実施することになった。最終的には、この家を保存することを基本方針とした。

 学者夫妻がこよなく愛し、夫妻の社会的活動の裏で、心身の休息の場所、思考の場所として存在したこの家を当時の雰囲気に近い姿で後世に伝えていくことは、親族にとっても望むところでもあり、社会的に大変有意義なことではないかということで、親族の思いが一致した。保存する方向を決めた時期に、保存の選択肢として、保存し維持してくれる団体へ売却することも検討したが、理想に見合う団体は見つからなかった。残された道は寄贈であった。

 寄贈するにあたって、一部の任意団体や、個人の活動のためだけに、この家をしようしてもらうのではなく、寄贈側の親族も含め、世間一般の人が訪れることができるよう、社会の財産として残せれば、との思いが強くあった。


 そのような決断の中で寄贈先を探していたところ、親族の意志を反映できそうな団体にめぐり合えたのである。英国のザ・ナショナル・トラストの存在は、親族の中でも知られていたが、それに近い動きをしている団体が日本にも存在することがわかった。
それが日本ナショナルトラストであった。

 日本ナショナルトラストへの寄贈手続きが完了した2002年夏、姫路の寺から、墓地管理量が未納になっているとの連絡で、駒井巷・増さん夫妻などの墓所が存在することがわかった。また、それがきっかけで、関東大震災(1923年)で倒壊した鎌倉円覚寺臥龍庵の再建に駒井増さんが駒井卓氏の名前で寄進、巷・増夫妻も再興墓として祭されていることがわかった。

 住宅を建てえた材料が血縁によって受け継がれていたものではないこと、建設の経緯と増さんの心情を思い、また研修所として費用負担を続けた東京電気などの歴史を振り返り、思いを馳せると、売却ではなく、恒久的な保存と公開を願って、ナショナルトラストに寄贈した決断が正解だったと考えている。

■住宅について

玄関には出張った靴箱がなく、靴や、靴磨きセットの収納場所の扉は壁と一体化されている。

スペイン風の洋風住宅だが、和室もある。和室は締め切ると、洋風の内部と違和感がないつくり。掘りごたつが作られており、窓から四季の花が楽しめる。駒井博士はカギが好きだったので、
どの部屋にもカギが取り付けられている。

居間には作りつけのソファがあり、窓には全て網戸がつけられていた。サンルームや食事室とつながり、広々感がある。
居間にある蓄音機は公開にあわせて屋根裏の倉庫から降ろしてきたもの。ピアノはドイツ製で象牙の鍵盤で大変高価なもの。照明器具は建設当時のままのもので、照明器具に使われている布も当時のもの。テーブルなど、海外から取り寄せられた家具は一部当時のもの。キャスターのついたサイドテーブルはヴォーリズの設計。家具は、現在、日吉の駒井家でしようされているものがあるので、除々に入れ替えていく予定。

 トイレは当時から水洗。
お風呂の脱衣場は米軍接収当時、ボーイの寝室として使われていた。そのためか、お風呂の出入り口は2箇所。当時の浴槽は五右衛門風呂との説があったが、昭和50年ごろはヒノキのお風呂だったらしい。

 台所は、レンジフードを除き、ほとんど当時のままだが、まるでシステムキッチンのよう。建設当時は大変画期的なものだったと考えられる。戸棚のガラス製のつまみがヴォーリズの特徴。

 階段は、段差が小さく、登りやすい。窓のステンドグラスは西日が入るととてもきれい。2階への途中に納戸のような部屋がある。廊下の天井は収納になっている。
2階には、駒井博士が収集された海外の小物のある部屋。種寝室はもとはカーペット敷きだったが、公開にあわせてはがして、もとのフローリングをいかした。

 駒井博士の書斎は、西向きで、どっしりした机は海外製と思われる。書籍類は駒井卓氏の愛弟子であり、義雄・冨美江夫妻の義理の弟である時岡隆氏が整理された。
庭には、ダーウィンの家を訪問した駒井博士がダーウィンの家にあったのと同じ温室が作られている。一時は、気まぐれ喫茶としても使われた。温室内には、修復前に使われていた屋根瓦が展示されている。

 洗濯室には、洗濯用の流しが2つと絞り機が設置されている。足の当たる部分を斜めにカットするなど、家事の負担軽減が考えられている。

 離れはもと書生部屋。米軍に接収された当時、夫妻が住んだ。ドラマ「海を渡ったバイオリン」の撮影のときには、草薙剛と菅野美穂ら、出演者の休憩場所となった。

 現在、住宅はボランティアの皆さんの手で、フローリングの床はぬか袋で磨くなど、美しく維持管理され、金曜土曜に公開され、解説が行なわれている。